御祭神
素戔嗚尊(すさのおのみこと)
奇稲田姫命(いなだひめのみこと)
配祀
菅原道真命
入口の碑
三芳野神社は本丸御殿の目の前です.
全然凄い神社ではありませんが,ちょっと昔懐かしい感じの神社です.
説明板
ここにも書いてある通り,童謡「通りゃんせ」発祥の地と言われています.
もっとも,この「通りゃんせ発祥の地」は他にもあるらしいですが…(^_^;.
誉田別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇)
この神社は神社以外の面で有名。童謡「とおりゃんせ」発祥の地とされ
「ここは、どこの細道じゃ。天神様の細道じゃ。」の
細道が 目の前に広がっている。この天神様は川越城
の城内に位置しており庶民の参拝は容易でなかった
という。庶民は参拝を許されたときに城警護の兵士に
監視されながら参詣をすることができたといい、そこから
「行きはよいよい、帰りは恐い」(帰り際に城の機密を
知った日には・・・/笑)な参道とされたという。
『通りゃんせ』の舞台、川越市ではなぜ帰りがこわい?
行きはよくても帰りはこわい≠ニ歌われた『通りゃんせ』のモデル
となった場所は、埼玉県の川越市だといわれる。
川越市は「小江戸」とも形容されるように、江戸時代には都とずいぶん
なじみの深い土地がら。江戸の北の守りとして、また、江戸の台所と
して代々幕府がおさめてきた天領である。
さて、そんな川越には、かつて城があり、城の本丸の近くに三芳野神
社が建立されていた。この神社、幕府とかかわりが深く、庶民の身では
ふだんは参詣もかなわず、庶民の参詣が許されるのは、年に一回の
大祭のときだけだったという。 とはいえ、そんなときでも、場所が
ら、警備の者が多い。町人たちがめずらしさのあまり、キョロキョロしよう
ものなら、「何をしている」「はやく歩け」と叱声が飛んできた。そんな庶
民の落ち着かない気分が「行きはよいよい帰りはこわい」と表現されたという。
喜多院の七不思議
川越の喜多院は、およそ千百年ほど前に、慈覚大師が建てたといわれる、古いお寺です。この喜多院には、次のような、七つのふしぎな話が伝えられています。
(一)山内禁鈴
だいぶむかしのことになりますが、喜多院に、ある晩おそく、一人の女がやってきて、
「おしょうさんに会わせてください。」
とたのみました。おしょうさんは、こんな夜おそくどんな用事だろうと、ふしぎにおもいながらも、話を聞くことにしました。女は、
「とつぜんのことで、びっくりなさるかもしれませんが、このお寺の鐘を、きょうから百日の間つかないとやくそくしていただきたいのです。もし、このやくそくを守っていただければ、この鐘の音をもっとよくしますから。」
と、熱心に話すのでした。おしょうさんは、おかしなことだなと思いましたが、何かわけがあるのだろうと考え、ひきうけました。女は、喜んでおしょうさんに何度もお礼を言って帰っていきました。
さて、おしょうさんが女に、鐘をつかないというやくそくをしてから百日めの晩のことです。
「こんばんわ。」
女の声がしたので、おしょうさんが出てみますと、今まで一度も会ったことのない人が立っていました。おしょうさんが、
「何か、ご用でも……。」
とたずねますと、
「じつは、おしょうさんにお願いがあってまいりました。」
と言うのです。女の人の美しいすがたと声に引きこまれるように、おしょうさんは、
「どんなことでしょう。わたしにできることでしたら。」
と言ってしまいました。女の人は、
「今夜、このお寺の鐘を一回だけでも鳴らしてくださいませんでしょうか。」
と、美しい顔にえみをたたえて言うのです。おしょうさんは、前にたずねてきた女の人に、きょうまで鐘をつかないとやくそくしたことが、頭のすみにありましたが、
「はい、つきましょう。」
と、思わず言ってしまったのでした。
おしょうさんは、小僧さんにいいつけてすぐに鐘をつかせました。
「ゴーン。」
鐘の音が鳴り終わらないうちに、おしょうさんの前にいた美しい女の人は、みるみるうちに竜となって雲をよび、風を起こして天にのぼっていきました。
このようすを小僧さんは知ってか知らぬか、もう一つ鐘を鳴らしました。ところが、鐘は、
「ゴン。」
という音がするだけで、ひびきがないのです。小僧さんは、ふしぎに思い、何回も力いっぱいついてみましたが、いい音がしませんでした。
そのときです。とつぜん、お寺の上に黒雲がたれこめてきたかと思うと、大つぶの雨がふりはじめ、かみなりがとどろきわたりました。
このことがあってからというもの、喜多院では、けっして鐘をつかず、そのうえ、境内では、鈴の音をたてることも禁じたということです。
(二)琵琶橋
ある日のこと、喜多院の尊海というえらい坊さんが、何人かの弟子たちといっしょに、用事があって出かけました。ところが帰るとき、道に迷ってしまいました。あちこちと歩いているうちに川の岸に出てしまいました。運の悪いときは悪いことが重なるもので、川に橋がかかっていないのでわたることもできません。坊さんたちがとほうにくれていますと、そこに一人の琵琶法師がたまたま通りかかりました。そして、
「わたしが橋を作りますからわたってください。」
と言うやいなや、自分の持っている琵琶を川にうかべました。すると、ふしぎなことに、琵琶が、みるみるうちに橋になったのです。尊海をはじめ、坊さんたちは、その橋をわたり、ぶじにお寺に帰ることができたということです。
それから何年かして、この琵琶をうかべたところに橋がかけられましたが、「仙波琵琶橋」とよばれるようになりました。
(三)おばけ杉
喜多院の閻魔堂のわきに、ふつうのスギとちょっとかわったスギの木があったそうです。木のはだが、そのへんに生えているスギとはちがって、ヘビのうろこのようなもように見えるので、蛇紋スギともよばれていました。
そのうえ、木はだを切りつけますと、真っ赤な血が流れたというのです。このために、人よんで「切血出杉」とか「おばけ杉」といったのです。
しかし、かれてしまったのか、切りたおしてしまったのか、今はありません。
(四)三位稲荷
喜多院の住職実海僧正は、たいへん徳の高いお坊さんでした。あるとき、鈴を鳴らしながらお経を読んでいるうちに、からだが空中にうきあがり、あっという間に妙義山(群馬県)の方に飛んでいってしまったということです。
弟子の三位という小僧さんは、そのとき、たまたま食事のしたくで、みそをすっていました。
三位は、実海僧正が天にのぼったと聞いて、すぐに後を追いかけようと、近くにあったほうきを持ってとびあがったのですが、法力がたりず、お寺の庭の築山の上に落ちてなくなりました。
お寺では師をしたって命をおとした三位をあわれに思い、三位の落ちたところに「三位稲荷」を建てたのです。これが、いま、喜多院の築山の上にある稲荷です。
(五)潮音殿
喜多院の本堂は、別に「大師堂」ともよばれています、これは、慈恵大師をまつったお堂だからです。
さて、この「大師堂」にはいってすわっていますと、どこからともなく潮のひびきがしてくるのです。そのために、いつのまにか「潮音殿」ともよばれるようになりました。
お堂の中には、天海僧正が、「潮音殿」と書いた額が、今でも残っているということです。
(六)底なしのあな
むかし、日枝神社の境内に、いろいろなものをすてるあながあったそうです。今では、石の囲いがしてあるだけで、あなはありません。
さて、このあなに何か投げ入れると、それが、かならず喜多院の双子池にうかんでいたということです。
また、どんなにごみをはきこんでも、一夜明けると、すっかりなくなってしまうということで「底無掃溜」ともよばれています。
(七)明星の井戸と明星の杉
永仁四年(1296)のことといいますから、今からおよそ七百年も前のことです。尊海僧正が、牛車に乗って井戸のそばまで来ますと、牛車をひいていた牛が、どうしても動かなくなってしまいました。僧正が、牛車から下りると、かたわらの井戸がとつぜんかがやき出し、井戸の中から明るくかがやく星が現れて、近くの古いスギのこずえにしばらくかがやいていたということです。
明星がかがやいた井戸を「明星の井戸」といい、明星が、こずえにかかったスギを「明星の杉」とよぶようになったということです。
この井戸とスギのあったところは、いま、駐車場になっていま
神社の脇にある石碑
写真では見にくくなってしまいましたが,川越七不思議(左)と,わらべうた発祥の地(右)の石碑です.
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