関東三十六不動霊場二十七番札所

真言宗 智山派 川越成田山
成田山川越別院  本行院
川越成田山  川越不動
虚空護童子
御本尊

成田山川越別院本行院は、江戸時代末に石川照温師によって開創されました。

成田山川越別院本行院は、江戸時代末に

石川照温師によって開創されました。

師は文化二年下総国葛飾郡に農家の三男として生まれ

俗名を留五郎、仮名を一心といいました。

幼少より他国に出てさまざまな困難に逢うなど

頗る波乱に富んだ生活を送る中、両眼を失明し前途の希望を失い

自殺を計ること三度に及びましたが遂に果たされませんでした。

すなわち師は、己を捨てることの出来なかったのは、

神仏の未だ己を見捨て給わぬためであると固く信じ、

成田山新勝寺に於て、断食の行に入りました。

この修行で不思議にも見えなかった両眼に異変を感じて

少しずつ見えるようになって、遂に満願の頃には

ほぼ元通り平愈することができたのであります。

                                                          

  そのため不動尊の偉大なる加持力、また大慈悲に心から感激した師は

一生を明王のために捧げることを誓い、天保13年に成田山の貫首、

照阿上人を慕って出家得度しました。その時石川照温師は39歳であ

りました。その後、照阿上人の許しを得てついに一念を発起し、

不動明王の御霊コを鼓吹するため諸国巡歴の旅に上がりました。

そして各地で師の徳を慕い集ってくるものが増し、ここ川越の地に

不動明王を安置して師を住せしめんと、10数人の有力な地元の

世話人達が廃寺となっていた川越久保町の本行院を再興すべく

川越城主松平大和守に願い出て、その許可を得ました。

そして嘉永六年本行院の復興とともに

成田山貫首照輪上人が御本尊不動明王の

ご分霊を開眼し照温師に授与せられこれが

成田山川越別院の起源となりました。

成田山本行院と公称するようになったのは、

明治10年からで、従来の本行院の建物等一切を本山の管理に

移し、本行院は本山の最初の別院となりました。

これが、全国成田山別院の魁であり、初代の住職は照輪上人で、

歴代の本山貫首を兼務住職として迎えております。

 

            

不動明王像                                                              

           

 

コンテンツ制作にあたり、いくつかの文献を参考にさせていただきました。
また、ご協力いただいたすべての方々に感謝いたします。

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